織絵屋のブログ
03/25: 文様・縞の魅力とは
織絵屋の松山です!いつの時代でも人気の文様に小粋な『縞』があります。
今回は縞文様について述べます!
縞文様には、大名縞や子持ち縞、やたら縞、またよろけ縞や万筋、千筋など多くの種類があります。
「しま」の呼び名は、中国の間道やインドのベンガラ縞、唐桟(とうざん)などの舶来の布が南の島から渡来したことから「島渡り」と呼ばれたことに由来します。
江戸前期までは、『筋』と呼ばれた横縞や格子柄が人気でした。
しかし、帯の幅が広くなった江戸時代も半ばを過ぎる頃から、腰高の着装が好まれるようになりました。
その結果、細身で背が高く見えるように、着物の柄模様は縦に伸びた草花や縦縞が好まれるようになりました。
背が高くて細く見えたいという思いは、江戸の女性も現代女性も同じですね。
また、縦縞が好まれるようになったのは、『縞』は天に伸びる文様で、願いがかなえられる文様と言われていたからだそうです。
縞文様の着物に興味のある方は。気軽にお問い合わせ、またはご来店下さい。
03/15: 博多織の歴史、文様の意味
織絵屋の松山です!13世紀半ば、満田弥右衛門と弁園和尚の渡宋(中国の南宋)によって生まれた博多織。
今回は、博多織について述べます!
西陣織などの織物は、そのほとんどが緯糸で文様を織り出していますが、博多織は経糸を浮かしながら文様を織り出します。
そのため締めると「キュッ、キュツ」という『絹鳴り』は博多帯の代名詞になっています。
博多帯は丈夫で締めやすく、ほどけにくい帯です。武士の角帯や相撲取りのまわしなどに使われていました。
また、生産量も少なく高級品だったので、江戸時代から京都の西陣や桐生などで博多帯の偽物が多く織られていたそうです。
伝統的工芸品に指定されている博多織には、①献上(けんじょう)、②平博多(ひらはかた)、③間道(かんどう)、④総浮け(そううけ)、⑤捩り織(もじりおり)、⑥重ね織(かさねおり)⑦絵緯博多(えぬきはかた)の7種類の織り方があります。
その中でも「献上」は、黒田長政が幕府に献上していたことから、その名が有名で、現在まで「博多帯と言えば献上」と認知されています。
博多献上の文様は、仏具の「花皿(はなざら)」と「独鈷(どっこ)」、そして、二種類の「縞」で構成されています。
花皿は招福を表し、独鈷は除災厄除けを表し、そして縞は幼き頃は両親に守られ、老いては子に守られるという、人間にとって最も大事な仏教の教えを意味しているそうです。
おしゃれ着には最高に締めやすく、コーディネートしやすい博多帯に興味のある方は、気軽のご来店、またはお問い合わせ下さい。
03/06: 沖縄に様々な織物と紅型染めが生まれた理由とは?
織絵屋の松山です。沖縄の織物、染物にあこがれる女性は多いと思います。今回は沖縄の染織について述べます。
沖縄には久米島紬や琉球絣、また土地、土地の花織や宮古上布、芭蕉布など、その種類の多さに特徴があります!
なぜ、沖縄にはこれほど多くの織物が生まれたのでしょうか?
これは、琉球国時代の科挙制度により、各島々から優秀な若者が中国に留学させられ、様々な織物技術を持ち帰り、それが各地の織元として発展したことに由来します。
紬の原点と言われる久米島紬は、古く4世紀ころにインドの絣技術が伝わりました。
真綿糸に手括りで絣を作り、泥染や草木染めして、居座機(いざりばた)で手織りしたものが久米島紬です。
その技術は、沖縄本島から鹿児島、そして結城、新潟、山形へと伝わっていったのです。
また、染物としては紅型染めが有名ですが、これは、琉球国が海洋王国であったため、外国から様々な色の鉱石が輸入されていたことから生まれました。
鮮やかな色彩が魅力の紅型染めは、それらの鉱石を砕いたものを染料として使い、色あせない染め物の紅型が生まれたのです。
沖縄の織物、染物に興味のある方は、気軽にお問い合わせ、またはご来店下さい。
02/23: ミツウロコ(三つ鱗)文様にはこんな意味があります!
織絵屋の松山です。今回は、古くは埴輪や古墳の壁面にも見られる、厄除けの文様として有名なミツウロコ(三つ鱗)文様について述べます。
ミツウロコ文様は、室町時代より使われるようになりました。主に、武士の陣羽織や能衣装に使われていました。
鱗(ウロコ)文様は、龍の鱗(ウロコ)を象徴する図柄だとされ、龍の霊力・パワーを借りるという意味がありました。
また、古代エジプトのピラミッドに代表される三角形にはとてつもないパワーがあると言われています。
女性の本厄・33歳のとき、ウロコ文様の長襦袢や帯を贈る風習があります。
文様研究家の故・東聖観氏によると、三十三は三角形が三重に重なることを意味し、三つ鱗(ミツウロコ)になります。
このミツウロコ文様を身に着けると体の免疫力が増し、厄除けとなるそうです。
ミツウロコ文様の長襦袢や帯をお探しの方は、気軽にお問い合わせ、またはご来店下さい。
02/21: 芸者衆の願いから生まれた『付下げ』
織絵屋の松山です。現代では、付下げと訪問着の違いを仕立て上がった状態で判別するのは難しいと思います。
明治時代までの晴れ着としては、「小袖(全体に絵羽模様)」と「裾模様(上前と下前だけに絵羽模様)」の二種類でした。
大正時代、小袖を簡略化した、今でいう訪問着が作られるようになりました。これは胸部分から両袖、そして裾全体に絵羽模様を描いたものです。
これらは全て、白生地を仮絵羽(着物の形に粗く縫ったもの)にしてから模様を描いたものでした。
着物の枚数が必要な芸者衆は、訪問着をさらにコストカットして、華やかだけれど安価な着物を求めました。
そして、昭和の初期に生まれたのが、今でいう「付下げ」です。
付下げは、白生地を仮絵羽にせずに、反物のまま、左の肩と前身頃、そして、左の内袖、右の外袖だけに模様を描いた着物です。
仕立がった付下げを前から見ると、訪問着にそん色のない着物になります。
これは、染の質を落とさずに上質のステキな着物を作るという素晴らしい発想でした。
ちなみに、なぜ、袖部分が左の内袖と右の外袖だけかというと、三味線を弾くときに、お客様から模様が華やかに見えるようにしたからです。
着物に関する疑問や悩みがありましたら、気軽にお問い合わせ、またはご来店下さい。